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| ■ 桐生織物の歴史 | 2003.06.16更新 | |||
そもそも、桐生での織物の起こりは、今から1300年ほど前の奈良時代。上野国、現在の群馬県が初めて絹を織って朝廷に差し出したと言われています。 平安時代には上野国の税は絹と定められている事からも、この地には昔から織物や養蚕が盛んであった事がわかります。 南北朝時代に入ると仁田山絹と云われ、この地の産物として他の国に移出されるまでに発展していきました。 ※その仁 田山絹にまつわる機神伝説(白滝姫伝記)によると、当時、上野国山田郡仁田山郷(現 在の桐生市川内町)と云っていた頃、朝廷に仕えていた山田と云う男子が官女白滝姫を恋い慕い、歌に託して切々とうったえた恋は姫の心を動かし、めでたく彼の故郷に連れ帰り、それから白滝姫は里人に養蚕、機織を伝えたとされています。 ところが… 1467年に起こった応仁の乱により世の中は一変。庶民は貧困のどん底におとしいれられ、上野国での絹織物も衰退してしまいました。 再び絹織物が息を吹き返したのは慶長5年、関ヶ原の戦いでの事。徳川家康が小山にいた軍を関ヶ原に帰す時、旗絹を求めてきました。職人達は全精力をつぎ込み、わずか1日ほどで2400もの旗を集め、東軍の勝利に貢献したという話が残されています。(徳川家の祖先と云われる新田義貞の旗揚げの由来で、縁起のよい桐生製の織物が使われたのです。)この頃、桐生は養蚕、絹織物の生産と交易のための町として徳川家の直轄(天領)となり桐生新町が誕生した。産業の中心が江戸に移り変わった事で益々盛んになり、大阪や京都など他の国とも取引が行われるようになります。しかし、桐生が一大消費都市の江戸市場に応える絹の町として定着するためには力量、そして技術の向上が求められました。当時、絹織物の中心地となっていたのは京都・西陣。その技術の高さと華麗さで各国の諸大名や裕福な庶民から評判となっていました。桐生織物業の発展をもたらすためには、織機と染織デザインの二方面にわたる技術革新が不可欠でした。すなわち、それは先進地である西陣の技術をいかに導入するかでした。 技術の流出を恐れる西陣の秘密保持に対し、桐生の職人も考えました。そこで元文3年、西陣の織物師・弥兵衛と吉兵衛を桐生に招きます。そして西陣の技術「高機」(たかはた)を導入し、技術の指導を受けたのです。そして、翌年の元文4年2月3日(?)、西陣の技術を導入し、桐生で本格的な大量生産による高級絹織物の生産が始まり、生産量はそれまでの何倍にも膨れ上がり、技術面も向上し、京都中心の流通機構から脱し、独自に市場を開拓していきました。しかし、延享元年、西陣により桐生紗綾織りの移入を阻止され、さらに隣町からも様々な妨害を受けることとなり、桐生の人々は苦難の時を耐え忍ばねばなりませんでした。これらを打開するには、自らの技術発明が不可欠でした。そこで、天明3年(1783年)、岩瀬吉兵衛が水車の水力を使った「八丁撚糸機」(はっちょうねんしき)(注)を開発して縮緬機全盛の基礎を築き、その後も様々な技術を自ら開発し、幕藩制社会の巨大な需用に応える紡績工業都市に発展していきました。桐生の名は益々広まり、徳川文化の爛熟期に金襴緞子など高級美術織物として成長を続けました。 明治維新は、桐生織物にもいち早く革新の息吹を与え、まず内地織物の生産と販売制度に革新をもたらし、輸出織物には欧州の染織技術を採用することになりました。 明治5年にすでに力織機を、同じく10年にはジャガード機(注)を輸入して紋織物の製造を開始するなど、桐生の先駆者は新知識の吸収と技術研究に没頭し優良商品の生産態勢を確立していきました。 織都桐生の名声を高めたものが、羽二重(はぶたえ)(注)の創織です。日本の輸出織物を代表する羽二重は明治12年桐生において試織され、同14年に日本最初の対米輸出を成し遂げました。 大正期には、人絹糸が新繊維として登場し、その商品化は桐生において大正8年文化帯として売り出したのが最初です。 昭和に移り、年を追うごとに産地の人絹糸使用量が激増し、昭和12年には輸出織物用原糸のうち88%弱を人絹糸が占めるようになり、明治年間黄金時代を築いた羽二重は、この頃すでに新興福井産地の商品となり、桐生産地は新規商品によって新たなる市場を開拓していきました。 こうした「ものづくりの歴史文化都市」としての神話を桐生が持ち得るのは、桐生スタイルのものづくりのシステムがあるからで、桐生は企画から製品化までのデザイン、撚糸、染め、織、刺繍、縫製など、すべての工程の技術が集積した産地であり、桐生でなら、なんでもできると業界では高い評価を受けています。繊維のすべての工程の技術が揃っているのです。 (注) *ジャカード:1800年フランスのジャカールが発明した紋織り装置。桐生にジャカードが入ってくるのは、明治10年の第1回内国勧業博覧会に出品された京都製の木製ジャカードを森山芳平ら桐生地域の機屋が購入したのが最初である。明治19年に買次商の佐羽喜六がアメリカから鉄製のジャカード2台とピアノマシン(紋紙に穴をあける器機)を輸入した。そのジャカードは森山らが購入して使用法を研究している。 *羽二重(はぶたえ):生織物として練った純白の肌ざわりのよい絹布。羽織地または礼服地用。 ● きりゅう織物年表
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桐生市 産業経済部 産業振興課 mail : sangyo@city.kiryu.gunma.jp | ||||
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